圓照寺について

圓照寺の縁起

当山は今より一千五十余年前、天禄元年庚午之歳(970年)、僧覚榮法師の創立で、熊谷市最古の天台宗の寺院です。本尊は阿弥陀如来、また不動明王は「熊谷成田山」や「くまがやお不動様」と愛唱されております。


此の場所に安置されている十二支守本尊八体佛は皆様方の生まれ歳各自にそなわった十二支に結縁し、貴方様方の一生を守る御本尊です。有難く合掌し御仏を心に念じ供養してください。

圓照寺の歴史

開基~明治


熊野山千形院圓照寺は第六十四代円融天皇の御代 天禄元年(970年)法印覚栄法師により開創され、中興の祖、大僧都法印覚道和尚は第百十五代桜町天皇の御代 元文四年(1793年)には諸堂の増改築を行った。


中興第二の祖、法印寂海和尚より明治維新に至る間多少の変還はあったが、寺域五千余坪・本堂は間口十二間・奥行九間余の総欅丸柱作り瓦葺堂宇で、境内の東南には金毘羅権現堂があり、南には厄除元三大師堂等諸堂が立並んでいた。


写真:明治22年建設風景

幕末に至り、享保・文久年間に隣接鎌倉町付近より出火があり類焼し、圓照寺並びに末寺二カ寺は灰燼に帰した。明治維新に到り、圓照寺が古来より山号・熊野山、院号・千形院に示す如く熊野権現・千形明神の別当職であって修験道の道場である理由で寺域二百坪を残してほとんど上地の厄に遭い失った。


明治四年に到り、先達 森兵三郎氏の病気平癒の奇瑞をもとに、成田山新勝寺不動明王を勧請し、熊谷成田山として出発し、明治二十三年三月、総欅作り瓦葺不動堂が建立された。


写真:明治23年

大正~現在


大正三年、熊谷町の開発計画に参加し圓照寺周辺の墓地を檀徒総代 松本平蔵氏の寄進による熊谷市大原(現墓地)に移転させ、寺域を六百坪に拡張させた。


昭和八年、不動堂東側に間口十間・奥行十三間の銅葺本堂兼庫裏を建立したが、その後昭和二十年八月十四日夜11時30分頃、熊谷市は空襲の火災の厄に遇い全山が悉く灰燼に帰した。俗にいう太平洋戦争最後の空襲 「熊谷空襲」である。


昭和二十一年に仮本堂の建立、昭和二十二年には市内聖天町旧山一蚕糸工場の守護佛弥勒菩薩の二間四方の堂宇と山門・水屋の寄進を仰ぎ移築した。


昭和二十三年六月二十六日、市内筑波町 松本安右衛門氏の寄進により不動明王と両童子像を安置した。


昭和二十八年四月、圓照寺教育布教事業として、埼玉県認可学校「摩耶幼稚園」を設立した。

写真:昭和8年

昭和四十六年八月一日、鉄筋コンクリート造り二階建て室町風の本堂五十坪を建立し、正面に阿弥陀如来、左右に不動明王と聖徳皇太子像を安置し、昭和二十年八月空襲で全焼以来、約二十六年目に本堂の完成をみた。


昭和四十八年、聖天町山村富二氏の作になる聖徳太子考養像の寄進があり、「熊谷聖徳太子奉賛会」を結成し奉安した。また、同年九月二十八日、市内柿沼不動堂を合祀。


平成九年三月、予てより「くまがやお不動様」の檀信徒の方々が更にお参りしやすい環境を実現したいと願い、摩耶幼稚園園舎の老朽化に伴い新園舎を完成させ、園舎三階を園児達の布教道場の一環とし、本尊阿弥陀如来を安置し本堂とし、前本堂では不動明王を正面に安置し不動堂として完成させた。


平成十四年三月、圓照寺大原墓地内に、墓地継承者無き人のため、永代供養墓として、納骨堂「倶会一処」を建立。また、圓照寺裏の土地を購入し、お参りされる方々が困らぬように駐車場を拡大させた。そして狭小な境内の中で、諸仏や環境を整え現在に至る。


写真:昭和46年圓照寺本堂完成当時

寺院概要


山号熊野山(くまのさん)
院号千形院(ちかたいん)
寺号圓照寺(えんしょうじ)
宗派天台宗
総本山比叡山延暦寺
本尊阿弥陀如来
住職第百一世 河邉 良典(かわべ りょうてん)

境内のご紹介

山門

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アクセス情報


所在地〒360-0043 埼玉県熊谷市星川1-1
交通アクセスJR熊谷駅より徒歩10分
秩父鉄道上熊谷駅より徒歩5分
連絡先TEL:048-522-1681 / FAX:048-525-1907

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